他人の視線が無ければいいのに
他人の目線が無ければと考えると、ラクに生きることができそうですよね。
街中ですれ違う人、電車の席で向かい合わせになった人など、毎日毎日他人の目線を気にしてしまう。実際に筆者はこんな感じで、他人からの目線をストレスに感じていました。
「こっち見るんじゃねえよ」「なんでそんなにチラチラ見てくるの?うざいんだけど」
そんな思いでした。
他人の視線とは
他人の目線は、実際に面と向かって物理的に送られる視線・目線のことです。
他者からの評価や評判ではなく、目の前の人間から送られるものであると筆者は定義しています。
他人の視線を感じるのは、あなたも見ているから論
他人の視線の論争でいつも出てくる理論です。
「あなたも見ているから、見られているとわかる。ので、お互い様」
これも正しいです。ただ、視線は感じることができます。
ので、こちらは直視していなくても、「見られているな」と感じることはできるのです。
こちらが見ていなくでも、他人の視線は気になることだってあります。
いちいち見てしまう自分が嫌になる
通りかかる人全ての人と目を合わせていました。全ての人を見ていました。
目なんて合わせたくありません。見ることで、相手も自分を見ているとわかり
余計に嫌になります。でも、見てしまうのです。
それは、目の前の人間が自分のことを見ているか、見ていないか気になっていたからです。
自分のことを見ていない、そう確認できれば安心できました。ただ、日本人の多くは他人の目線を気にするのか、ほとんどの人と目が合うのは事実でした。
見たくないのに見て、見られているとわかって、また見てしまう。
そんな自分に嫌ですし、気持ちも消耗しました。
他人はセミで、視線など送ってこない
他人=セミ理論
海外経験のある筆者ですが、日本と海外で大きな違いがあります。
「外国人は、見てきません」
事実、私は他人の目線に関する好奇心で、東南アジアに渡り、また欧米人とも関わる機会がありました。不思議なことに、彼らは私に見向きもしません。観察していても、すれ違う人の目を見たり気にする様子が一切ありません。
日本だと、目を合わせないようにしたり、謎の絶妙な緊張感や気まずさが生まれている。
海外で思いました。「相手が見てこないとなれば、こちらも見ない」
結果、筆者は海外で今までにないほど、他人の目線などどうでもよくなりました。
この経験から、「他人=セミ理論」に辿り着きました。
セミは木の上から、私たち人間をいちいち見ていますか?
逆に私たちは、セミからの目線を気にしていますか?
お互いに見ていないのです。お互いに興味ないのです。
これこそが本来あるべき姿だと筆者は考えています。
おわりに
セミ理論。いかがでしたか。
人間とセミでは大きさも目線の高さも違います。
そもそも、セミは私たち人間の視界にそもそも入らないのに対し、すれ違う人間は私たちの視界に入ってしまうのも確かです。
なので今回はあくまで、考え方のお話になります。
ぜひコメントください。












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